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第九章 認められる実力

作者: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-09-06 10:41:07

 深夜の研究室に、緊張した空気が流れていた。

 天井の蛍光灯が青白い光を満遍なく投げ、白い壁と磨かれたタイル床を冷たく照らしている。

 ガラス越しの培養室では、無数の培養器が規則正しく並び、青いデジタル表示が静かに明滅を繰り返していた。

 消毒液とわずかな薬品の匂いが空気に溶け、機械の低い駆動音だけが規則正しく響いている。

「主任! 培養データの数値が急変しています!」

 後輩の一人が慌てた声を上げる。

 モニターの画面が突然、赤く点滅し始め、警告音が短い電子音を繰り返した。

 周囲の研究員たちが椅子から身を乗り出し、ざわめきがフロアに広がる。白い白衣の裾が慌ただしく揺れ、キーボードを叩く音が乱れたリズムを刻み始める。

 モニターには、本来安定しているはずの数値が赤く点滅していた。

 グラフの線が急激に上昇し、警告の赤い帯が画面全体を覆い尽くそうとしていた。

「原因は?」

「分かりません。試薬も機器も問題ないはずなのに……」

 周囲の研究員たちがざわつく。

 誰かが培養器の蓋を開け、別の誰かがログをスクロールする音が重なる。

 このデータが崩れれば、来月の入札そのものに影響する。その大事な時期に、トラブルは致命的だった。

 フロア全体の空気が、一気に重く沈んでいく。

 澪は静かに、モニターへ歩み寄った。そして白衣の袖を軽く整え、感情を排し、画面に表示された数値とログを素早く追い始める。

 指先がマウスを正確に動かし、過去のデータと現在の数値を頭の中で照合していく。

 周囲のざわめきが、彼女の集中を邪魔することはなかった。

「……このロットです」

「え?」

「前回と組成が微妙に違います。マニュアル通りに調整すると、今回の条件では数値がずれるはずです。先週補充した試薬の一覧を出してください」

 後輩が慌ててデータを呼び出す。

 キーボードを叩く音が慌ただしく響き、画面に試薬のリストが次々と表示される。

 澪はそれを一瞥し、すぐに口を開いた。

「これです。このロットはマニュアル通りに調整すると、逆に数値が狂います」

「そんな……」

「すぐに、調整値を変更してください。この数値で再設定すれば戻ります」

 指示を受けた研究員たちが素早く動く。白衣の人影が培養室へと流れ込み、機器の設定パネルが次々と操作される。

 数字を入力する指先、確認の声、機械が再起動する低い音が重なり合う。

 数分後、モニターの警告表示が消えた。赤い点滅が止まり、数値が正常範囲内に収束していく様子が、画面上でゆっくりと確認できた。

「……戻りました」

 安堵の声が広がる。フロア全体から、ほっとした吐息と小さな拍手が漏れた。

 培養器の青い光が再び安定したリズムで点滅し、機械の駆動音が穏やかな背景音に戻っていく。

「主任がいるから安心です」

「本当に、宮坂主任がいないと困ります」

 後輩たちが素直に感謝の言葉を口にする。

 澪は小さく微笑み、軽く頷いた。

「皆が冷静に対応してくれたからです。このまま記録を残しておいてください」

 そのとき、研究室の入口に神代先生の姿があった。 

 一部始終を見ていたらしい。入口の自動ドアが開く音とともに、先生の白衣が青白い光の中に浮かび上がる。

 眼鏡の奥で鋭い視線が澪を捉え、足音がタイル床に乾いた響きを残しながら近づいてくる。

「宮坂」

「先生」

 神代は満足そうに近寄り、声を低くした。

 周囲の研究員たちが少し離れた場所で作業を再開する中、二人の間だけが静かな空間を作り出していた。

「来月の入札は、君に懸かっている」

 澪は一瞬だけ息を止めた。

 モニターの光が彼女の瞳に映り、数字の列が微かに揺れて見えた。

「私は、ただすべきことをしただけです」

「謙遜するな。現場をまとめ、即座に原因を特定できる人間は少ない。東条グループも、君の働きを注視しているはずだ」

 神代は眼鏡を指で直し、静かに続けた。

「期待しているぞ」

「はい」

 澪は真っ直ぐに答え、再びモニターへ視線を戻した。画面の中で数値が安定したまま更新されていく。

 指先がキーボードに触れ、その小さな音だけが、彼女の周囲に静かな輪を描くように広がっていった。

***

 翌日、東条グループ本社。高層階の執務室で、東条悠臣は秘書から提出された報告書に目を通していた。

「昨夜、宮坂主任の指示で、異常値は短時間で正常範囲まで戻ったそうです」

「そうか」

 悠臣は書類を静かに置いた。紙の擦れる音が、静まり返った執務室に小さく響く。

 彼の視線が報告書の文字を追い、指先がデスクの端を軽く叩く。

「一度、宮坂主任と正式に話がしたい」

 秘書が少し驚いたように目を上げる。

「打ち合わせの予定を入れますか」

「ああ。研究面での確認事項がある。向こうの都合を優先して調整してくれ」

「承知しました」

 秘書が退室したあと、悠臣は窓の外へ視線を向けた。

 高層階からの眺めは広大で、都市の喧騒が遠ざかり、空の青さが部屋に柔らかく差し込んでいる。

 病院で出会ったときの冷静な対応と、視察時の的確な説明。そして、昨夜の対応。

(彼女――ただの優秀な研究者、というだけではない)

 静かな興味が、確実に深まっていた。

***

 その日の夕方。澪のパソコンに、一通のメールが届いた。

 テーブルの上に置かれたノートパソコンの画面が、淡い光を放ち、キーボードに細い影を落としていた。

 差出人は東条グループ。件名には「研究打ち合わせのご依頼」とある。画面に表示された文字が、西日の光を受けてくっきりと浮かび上がる。

 澪は画面を見つめたまま小さく息を吐いて、返信ボタンに指を伸ばした。

 画面の端に表示された、東条悠臣の名前が目に入る。指先がマウスの上でわずかに止まり、部屋の空気が静かに流れる。

 澪は一瞬だけ、先日の夜を思い出す。

 ――「宮坂さんの知識と、判断の速さには驚きました」

 すぐに画面へ視線を戻す。

(――これは仕事、それだけのこと)

 仕事として受ければいい。私情を挟む必要はない。

 返信の文面を整え、送信ボタンを押す音が、静かな部屋に小さく響いた。​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

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